飫肥の歴史
小京都としても知られる飫肥は封建時代の雰囲気が今も残っており、平安から続く長い歴史を持っています。
記録によれば飫肥の初見は、平安時代(794年-1185年)の『倭名類聚抄』に「飫肥」の文字が表記されていることに始まります。当時の飫肥は九州という遠い地にあったにもかかわらず、奈良の興福寺と封建的な盟約を結んでいました。興福寺は奈良・平安時代に最も勢力の強い氏族だった藤原氏のための寺でした。
南北朝時代(1336年-1392年)の飫肥は氏族同士の争いが絶えない場所でした。飫肥で初めて城が建造されたのもこの時期のことです。さらに時が経ち、戦国時代(1467年-1603年)になると、日向の地を支配していた伊東氏と飫肥や都城を支配していた島津氏との間の闘いが絶えず続くようになりました。1543年になると伊東氏は飫肥を攻略するための進軍を開始し、1568年にとうとう飫肥を手中に収めました。この間、飫肥城の周囲に城下町が形成されはじめたと見られます。
その後伊東氏は飫肥から島津氏によって追い出されてしまいましたが、九州平定を進める豊臣秀吉の臣下となって働くことで飫肥の支配権を取り戻し、以降3世紀近くにわたって一帯を支配し続けました。この時代の町割の区画は現在でもその姿をとどめています。
土地の性質もあって飫肥の農産物はそれほどの発展はしませんでした。しかし、日本中に流通し、船の建造のための木材として利用された飫肥杉の販売を主な手立てとして、この時期の飫肥は繁栄を迎えることができました。
明治時代になると、飫肥は南九州の政治的および経済的中心地としての役割を果たすようになりました。